汚れたスタン・スミスにみる物語性
京王線には、他の線と比べて汚れたスタン・スミスを履いている女性が多い…………と思うのは偏見だろうか。
スタン・スミスとはアディダスのスニーカーのことだ。
沢山モデルはあるけれど、一番基本的なものは、白くて、穴が空いていて、踵とベロのところにだけ緑が入ってる。ベロのところの緑はカーネル・サンダースにもにたおじさんの似顔絵だ。多分差し替えても誰も気づかないだろう。
僕自身は足の形が合わなくてアディダスのスニーカーはほとんど履けない。
でもあのシンプルなデザインはなんにでも合わせやすそうだし、アディダスのブランドならみんな知っているし、定番スニーカーになるのもうなずける。
だからたくさん目にしたとしても何も不思議ではないのだけれど、それにしたって京王線には汚れたスタン・スミスを履いている女性が多い、気がする。
これまでの3記事を読んだ方なら勘付いているもしれないが、僕には妄想癖がある。
あ、別にヤラシイ意味じゃないんで引かないで。ブラウザを閉じるのはもうちょっと待って。
細かい事が気になってしまうのが僕の悪い癖なだけなんです。
この前電車(これまた京王線)に乗っていたら、目の前にダブルのレザージャケットをやたらと胸元の空いたTシャツの上から羽織り、スキニーのレザーパンツを履き、足元は黒いヒールのついた靴、髪はかきあげてキメた、寝起き顔ドスッピンのお姉さんがいた。
もしかしたら彼女はあの後新宿駅のお手洗いでメイクをして、インターポールに追われる国際的な女盗賊に変身し、モミアゲのやたら長い猿顔の3代目をからかいに行くのかもしれない。
僕はテレビの中の人物が目の前にいる事に感動しつつも、その人物がハーレーではなくよりによって京王線に乗っている事、その人物にも寝起きの顔があり、スッピンの顔がある事に少しがっかりした。
と、そんなところまで妄想した。電車は乗り過ごした。
そんな妄想癖のある僕からすると、汚れたスタン・スミスをはいた女性はとても魅力的である。
そのシンプルなデザイン故、どんな服装なのか、どんな表情なのかによってその汚れが持つ意味合いが変わって来るような気がするのだ。
可愛らしいスカートを履いて、嬉々とした表情ならば、これからその人は好きな人とデートなのかもしれない。汚れた、ある意味では履きなれたスニーカーを履いて行くのだから、街歩きなり、アクティブなデートをするのかもしれない。新宿方面に向かう電車に乗っているから、普段は多摩方面に住んでいて、休みの日だから都会の方に出て、新宿なり渋谷なりでその好きな人と待ち合わせているのかもしれない。とか。
履き込まれたジーンズを履いて、疲れた顔をしているのなら、その人は仕事帰りなのかもしれない。履き込まれたジーンズと汚れたスニーカーからは、なんとなく若者の活力のようなものを感じる。その人には夢があって、その身一つで上京してきて、今は家賃の安い西東京に住んで、都会の方でアルバイトをしつつ夢を追いかけている途中なのかもしれない。とか。
でもこれが、同じ白いスニーカーでもベルクロのついたエアフォースワンだったらここまで考えることはできないだろう。
汚れたそれを履いているのなんてB-boyか高校球児くらいだ。
これがベロにおじさんがいるかいないかの差なのかもしれない。
ただ、それでも僕はスタン・スミスを履けない。
僕がいつも履いているネイビーのスニーカーは上京する時に新生活を送るためにと母親からプレゼントされたものだ。
引っ越しが終わり親が帰ってから近所を散歩したときもこのスニーカーだったし、同じく上京した高校の友達と、田舎から上京して初めて新宿や渋谷を歩いたときもこのスニーカーだった。
そればっかり履いていたから京王線で見かけるスタン・スミスよりもずっと汚れているけれど、なんだ、僕のスニーカーの方がずっと物語性があるじゃないか。