思春期のすべて VS. 塾講師バイトの憂鬱
バイト先が家から近い。バイト先が塾である。
たった2つの条件だけで僕はずいぶんと生きにくくなってしまったし、僕はずいぶんとまともな、ある意味では正しい、21歳になってしまった。
例えば友達とコンビニで待ち合わせをするとして、友達が少し遅れている。そんな状況では多くの人が雑誌の立ち読みをするだろう。
さて、何を読もうか。
僕はヤングマガジンを読みたい。カイジを読んで「コイツよりは俺の方がマシかぁ」と未来への不安が尽きることない己の人生に少しでも安堵と優越感を与えてあげたいし、ハンチョウを読んでささやかな日常の、小さな幸せを噛み締めながら生きていくのも悪くないんじゃない?と己に言い聞かせねばならない。
しかし、僕は主として中学生相手に授業をしているのだ。
表紙にセクスィーなグラビアが載ることも多いヤングマガジンである。どうか読者諸君には自らの心の中に潜む中学生を叩き起こして問うてみてほしい。
「ヤングマガジンはエロ本であるか否か」
答えは明白だ。
ワンピースを建前にジャンプを買い、その中のお色気マンガを親に隠れて深夜にこっそり読むような思春期の前では21歳の日常など何の説得力も持たない。
しかもバイト先の塾と家が近いのである。裏通りの家の住人が、或いは隣人が、自分が授業をしている生徒でないとも限らない。変態講師の烙印を押され、村八分にされ、身ぐるみ剥がされる。電気もガスも水道も止められ、玄関を開ければネズミや虫の死骸が積み上げられている。疑心暗鬼、そして、耐えられぬ日常。そんなリスクを侵してまで僕はヤングマガジンをコンビニで立ち読みできない。
本当に読みたいものに気づかないフリをして、読みたくもない日経ビジネスを読むほかないのだ。
でも、もしかしたらこれが大人になるってことなのかもしれない。本当の自分に嘘をついて、体裁のために難しい顔をするのが大人であるのかもしれない。
ずいぶんとまともな、ある意味では正しい、そしてつまらない21歳になってしまった。
本当に中学生に見せてはいけないのは、ヤングマガジンを立ち読みする姿などではなく、こんな大人の姿なのかもしれない。
少年の日の思い出
せっかく不特定多数に文章を届ける場があるので。
僕は1998年7月1日生まれです。
そして後1ヶ月程で迎える新年は2019年。
1ヶ月後、僕は成人式に主席します。
成人式の後には中学の同窓会があって、友達が多かったわけではないけれど、旧友たちに会うのは楽しみです。
小学6年生の時、僕には好きな子がいました。
Tさんとしておきます。
僕とTさんは5年生のときから同じクラスで、同じ委員会にも入っていました。
割と忙しい委員会だったため、会話をすることも多くなり、僕は次第にTさんに惹かれていきました。
そしてどうやら、僕はそれが隠れていなかったようで、僕がTさんが好きだということは次第にクラスに広まっていきました。Tさんにもそれはバレていたと思います。それでも何も変わらない付き合いをしてくれたわけですから、大したもんだなぁと今でも思います。
因みにTさんはクラスの男子から結構モテていました。
修学旅行の夜、男子の部屋だと「好きな子を言い合う会」みたいなのあるじゃないですか。何人かそこで被りましたからね。
そして6年生の2月、僕はある決意をします。
バレンタインの日にTさんに告白しようというのです。
その頃は逆チョコや友チョコがテレビで言われていたりと、バレンタインの日は好意や感謝を伝える日ぐらいのニュアンスになりつつあったので、それに便乗すれば上手くいくじゃないかという小学生の浅はかな計算からの決意でした。
そして当日、僕は勇気を振り絞り学校へ向かいました。
僕が教室につくとTさんはチョコレートを友達たちに配っていました。そのチョコレートは僕のところにもやってきました。
しまったと思いました。もらったときに上手く告白の流れを作れれば逆に良かったのかもしれませんが、そんなことは当時の僕には(というか今の僕にだって)出来ず、その時は先にチョコレートをもらってしまって告白のタイミングを逃したとばかり思いました。
結局告白できずじまいで、その日は終わろうとしていました。
いよいよ家に帰ろうかというとき、僕はクラスメイトのMさんに声をかけられました。なんでも、チョコレートを放課後僕の家の前に届けてくれるそうです。その日は「友チョコ」として他にも何人かのクラスメイトにチョコレートをもらっていて、Mさんもそうなのだろうと思いました。数が足りなくなって家に取りに帰ってくれるのだろう、なんと優しい人なのだろうとすら思いました。
Mさんは卒業文集の担当ページが僕と同じでした。少し天然なところはあったけれど、勉強もできて、上品なお嬢さんというふうな人でした。Mさんは、田舎の小学校の中では珍しい中学受験をしていて、中高一貫の女子校に進学することが決まっていました。
家の前で待っているとMさんがやってきて、とても立派な手づくりのチョコレートをくれました。そして本命だという旨を伝えて僕が何か言う前に帰ってしまいました。
嬉しく思い、そして同時にどうするべきかと悩みました。僕はその日、別の人に告白しようとしていたのですから。
違う中学校に進学するとわかっていて、僕に他に好きな人にがいると知っていて、それでも僕に告白した彼女の胸のうちを考え、チョコレートを渡す彼女の笑った顔がどんなに素敵なものだったかを思い出しました。
そしていくうちに、好意が生まれ、それはどんどん膨らんでいきました。
言葉にすると簡単で、自分でも単純だなぁと思います。でもその時の笑顔にはそこまで僕を惹き付けるものがありました。
そしてその3日後(それでも3日は悩んだのです!)、僕は自分の想いを彼女に伝えました。彼女はまた笑っていました。3日前とは少し違う笑い方でした。
そうなったのはいいものの、その後卒業までの間に、彼女に対して小学生の自分にできたことはほとんどありませんでした。ただ、両想いであることを自覚しながら残りの日々をすごすだけでしが、それでもそういうことに縁遠かった僕にとっては十分でした。
そんな中でも一度手紙を貰いました。なかには、中学は違ってしまうけれど、高校はせめて近いところに来て欲しいとありました。
僕は懇切丁寧に返事を書き、彼女に渡しました。結局ありきたりな文章になってしまって、もっと上手く書けるようになりたいなぁと思いました。
春休みになって一度だけ彼女に連絡したことがあります。彼女には、今は新しい生活に向けての準備で忙しいと言われました。
その後、彼女と会うことはありませんでした。
中学生になって、Mさんにもう一度連絡する勇気も無いのに気持ちだけが大きくなってしまった僕は、ひたすら勉強に励みました。
実はMさんに言われた高校は県内でも一、ニを争う進学校で、当時の頭のデキではとても進むことなどできなかったのです。その高校に進めば、口実になると思いました。ここまで書いていて、自分の小ささにうんざりしますね。
そうして勉強に励んでいくうちに僕は数学と理科が大好きな少年に成長し、結局高校は彼女の言った高校とは違う、科学部があって理系教育の充実した高校に進みました。中学生になって僕らの関係はうやむやになって、僕にも他に好きな人ができたりしたから、何も迷うことはありませんでした。それに、進路選択をする頃にはMさんに言われた方の高校も十分合格圏内にあったので、約束も半分くらいは果たせたんじゃないかと勝手に思っています。
あの手紙が無かったら、僕の人生は大きく違ったものになっていたと思います。Mさんに対して感じているものを感謝と呼ぶのはまた違う気がしますが、それに近い何かであることは間違いないです。
僕が彼女に何か影響を与えたのかは知りません。知って何か思ったところでどうなるのだという気もします。少し、悪影響を与えていたり、悪印象をもたれていなければいいなぁと思う程度です。
※これは8年前の話であり、それを思いだしながら書きました。なので多少事実と違っていても多目に見てください。
※この話に関係し、この話を不快に感じる人がいたら連絡をください。謝罪し、すぐに記事を削除します。
「少し」の優しさ
高校2年生の時に、学校行事の1つとしてスイスに行きました。
初めての海外旅行、何なら初めての飛行機搭乗です。
課外研修という名目だったので、基本的にはスイスの大学や研究施設を周りました。
ただそれでも、多少はスイス観光しました。「グローバルな視点を身につける」というのも旅の目的の1つに設定されていましたから。
さて、スイスの公用語はドイツ語、フランス語など複数ありますが、大学や研究施設の中の公用語は基本的には英語です。だから、その中ではほとんど困ることはありませんでした。
しかし、ひとたび外に出ればそうはいきません。ガイドさん付きで団体行動しているとはいえ、ネイティブスピーカーでない同士で現地人と英語で話すタイミングはいくらでもあります。
ある日、昼食をスーパーのデリブュッフェでとることになりました。デリブュッフェとは好きなものを自分で取るなり注文するなりして会計をしてから席について食べる方式のことです。
量り売りの惣菜をとり、あとはメインをとるだけの状態になりました。パスタを注文する列に並びます。
自分の番になり、ダンケ、メルシーくらいしか知らない僕は、なんとか身振り手振りを交えミートソースのスパゲッティを注文しました。
しかし、係のおじさんはまだ何か言っています。正直何語で何を喋ってるのかはわかりませんでしたが、どうやらパスタの量を聞かれているようだということはわかりました。そしてどの量でも値段は一緒らしい。
ヨーロッパサイズの普通が日本だとなんと呼ばれるサイズになるのか、その頃にはわかっていたので僕は量を減らそうとしました。
「リトル」
僕はそう言って親指と人差し指でサインをしました。
おじさんは笑いました。そしてパスタを増やしました。たくさん。
僕はとりあえず愛想笑いをしました。
何故おじさんはパスタを増やしたのか。何故その笑顔に優しさが混じっていたのか。
よくわからないまま勢いに流されそのまま会計をしました。合点がいったのは席についた後でした。
「リトル」
その意味は、「少し」です。
僕は「少しの量にしてくれ」という意味でその語を使いましたが、あのおじさんには「少し増やしてくれ」と取れたのでしょう。
そしておじさんは、男子高校生である僕をみてきっとこう思ったのです。
「遠慮するな」と。
それこそが笑顔に優しさが混じっていた理由であり、やたらめったらパスタが増えた理由なのです。
日本ではあまり見かけない、スパイスのきいたゴロゴロした挽肉のミートソースがおじさんの計らいでパスタの量に合わせて増えてかかっています。
味は非常に美味しかったです。どんな想いで完食したかは想像に任せます。
この話を、海外コミュニケーション失敗談ととるか、外国人との心暖まるエピソードとるか、それは貴方の心の中に。
最もパブリックな歯医者の味とは?
皆さんは歯医者が好きですか?
僕は嫌いです。
歯医者って五感全てに訴えかけてきますよね。
あんなにクリーンで、ヒーリングミュージックなんかがかかちゃったりなんかしちゃってるのに、どうしてあんなにも多くの情報が交錯しているのでしょうか?
最近、歯医者に行きました。
とても待ち時間を合わせて1時間半程でしょうか。とても辛かった。
なんとしてでもこの感情の高まりを文字に起こさずにはいられない。それでなければ受け止めきれない。
でも情報があまりにも多かったから、一つ一つ処理していかなければとても人に見せる文章にまとめられそうにありません。
そんなわけで今回は歯医者の味についてです。
「最もパブリックな歯医者の味とは?」それが今回の記事のタイトルでしたっけ?
愚問ですね。
これは「フランス料理のフルコースってどんな味ですか?」と聞いているようなものです。
前菜から始まりコーヒーに至るまで、様々な料理が提供され、その料理一つ一つにも様々な側面があるというのに、それを一つの味の感想としてまとめようなど愚の骨頂でしょう。
それは歯医者だって同じ。
僕たちを苦しめるあの感覚に、たった一つのパブリックイメージをつけることなどできないのです。
受付をして席(治療台)についたらまずエプロンをつけられます。
ここまではフルコースと同じですね。
その後提供されるのは多くの場合紙コップ入った水です。
歯医者の水ってなんか変な味しません?
紙コップのせいなのか、水に何か入っているのか知りませんが、なんか消毒臭いというか。
そして口をゆすいだらいよいよ治療が始まります。
口に突っ込まれる鏡の金属の味。
ドリルで削られ飛び散る歯の欠片の味。
治療後もその違和感が続く詰め物の味。
「噛んでください」と言われる謎の紙の味。
そして、時折舌に触れる人肌の温度のゴム手袋の味。
人肌なのは、ゴム手袋をしてるのがおじさんだからですね。あれは人肌の中でもおじさんの温度です。
そして最後はフッ素を塗られます。
子供用だったりするとイチゴ味とかついてるんですよね。
あのわざとらしいイチゴ味!!!
デザート気取りでしょうか?
しかも歯医者で味わった味を一刻も早く上書きしたいのに、このあと3時間は何も食べないでくださいね、とか言いやがります。
学校終わった後に行くと、空腹も相まってあの時間がすごく嫌だったなぁ。
皆さん、ちゃんと歯を磨きましょう。
最後に、もし強引にでもタイトルに結論を落とすならこんな感じですかね。
Q.最もパブリックな歯医者の味とは?
A.イヤな味。
汚れたスタン・スミスにみる物語性
京王線には、他の線と比べて汚れたスタン・スミスを履いている女性が多い…………と思うのは偏見だろうか。
スタン・スミスとはアディダスのスニーカーのことだ。
沢山モデルはあるけれど、一番基本的なものは、白くて、穴が空いていて、踵とベロのところにだけ緑が入ってる。ベロのところの緑はカーネル・サンダースにもにたおじさんの似顔絵だ。多分差し替えても誰も気づかないだろう。
僕自身は足の形が合わなくてアディダスのスニーカーはほとんど履けない。
でもあのシンプルなデザインはなんにでも合わせやすそうだし、アディダスのブランドならみんな知っているし、定番スニーカーになるのもうなずける。
だからたくさん目にしたとしても何も不思議ではないのだけれど、それにしたって京王線には汚れたスタン・スミスを履いている女性が多い、気がする。
これまでの3記事を読んだ方なら勘付いているもしれないが、僕には妄想癖がある。
あ、別にヤラシイ意味じゃないんで引かないで。ブラウザを閉じるのはもうちょっと待って。
細かい事が気になってしまうのが僕の悪い癖なだけなんです。
この前電車(これまた京王線)に乗っていたら、目の前にダブルのレザージャケットをやたらと胸元の空いたTシャツの上から羽織り、スキニーのレザーパンツを履き、足元は黒いヒールのついた靴、髪はかきあげてキメた、寝起き顔ドスッピンのお姉さんがいた。
もしかしたら彼女はあの後新宿駅のお手洗いでメイクをして、インターポールに追われる国際的な女盗賊に変身し、モミアゲのやたら長い猿顔の3代目をからかいに行くのかもしれない。
僕はテレビの中の人物が目の前にいる事に感動しつつも、その人物がハーレーではなくよりによって京王線に乗っている事、その人物にも寝起きの顔があり、スッピンの顔がある事に少しがっかりした。
と、そんなところまで妄想した。電車は乗り過ごした。
そんな妄想癖のある僕からすると、汚れたスタン・スミスをはいた女性はとても魅力的である。
そのシンプルなデザイン故、どんな服装なのか、どんな表情なのかによってその汚れが持つ意味合いが変わって来るような気がするのだ。
可愛らしいスカートを履いて、嬉々とした表情ならば、これからその人は好きな人とデートなのかもしれない。汚れた、ある意味では履きなれたスニーカーを履いて行くのだから、街歩きなり、アクティブなデートをするのかもしれない。新宿方面に向かう電車に乗っているから、普段は多摩方面に住んでいて、休みの日だから都会の方に出て、新宿なり渋谷なりでその好きな人と待ち合わせているのかもしれない。とか。
履き込まれたジーンズを履いて、疲れた顔をしているのなら、その人は仕事帰りなのかもしれない。履き込まれたジーンズと汚れたスニーカーからは、なんとなく若者の活力のようなものを感じる。その人には夢があって、その身一つで上京してきて、今は家賃の安い西東京に住んで、都会の方でアルバイトをしつつ夢を追いかけている途中なのかもしれない。とか。
でもこれが、同じ白いスニーカーでもベルクロのついたエアフォースワンだったらここまで考えることはできないだろう。
汚れたそれを履いているのなんてB-boyか高校球児くらいだ。
これがベロにおじさんがいるかいないかの差なのかもしれない。
ただ、それでも僕はスタン・スミスを履けない。
僕がいつも履いているネイビーのスニーカーは上京する時に新生活を送るためにと母親からプレゼントされたものだ。
引っ越しが終わり親が帰ってから近所を散歩したときもこのスニーカーだったし、同じく上京した高校の友達と、田舎から上京して初めて新宿や渋谷を歩いたときもこのスニーカーだった。
そればっかり履いていたから京王線で見かけるスタン・スミスよりもずっと汚れているけれど、なんだ、僕のスニーカーの方がずっと物語性があるじゃないか。
最近欲しいもの:巻き簀
最近自炊に再ハマり中です。フライパンと包丁も新調しました。
上手ではないので、たいして節約にはなってないですけどね。多分、三食牛丼でも食べていたほうが安上がりです。
でもきっと、自炊上手な人はきっと牛丼も手作りして、同じ350円で卵も味噌汁もおしんこもつけちゃったりしてさ、これ見よがしにつゆだっくだくにしてたべているんだろうなぁ。
そういうやつらはね、毎度毎度、牛丼作り終わってから紅ショウガを買い忘れていることに気づいて、毎度毎度、卵やらおしんこやらがついていたとしてもなんだか味気ない、素っ気ない牛丼を食べていればいいんです。
僕はす〇家レディオを聞きながら、ちゃんとあの身体に悪そうな色をした紅ショウガ付きで牛丼を食べますから。
話が逸れましたね。自炊の話。
節約できないにしても、家に帰ってきてからすぐに食べられるような、作り置きおかず的なもの作れるようになりたいと思い、手始めに巷ではやりの鶏ハムを作ってみました。
鶏むね肉を開いて薄くする。塩と砂糖を塗り込む。巻いてラップで包む。ゆでる。以上。
簡単そうに聞こえましたか?
とんでもない!!!!!難しいですよこれ。
まず鶏むね肉を薄くするところ。これは肉の真ん中に切れ目を入れて、そこから左右に包丁を入れていきます。
冒頭でも書きましたが包丁を新調したんです。切れ味が良すぎて切れ目だけではすまず肉が二つになりました。
それでもどうにかこうにか薄くして、塩と砂糖を塗り組む作業に入りました。
ここで僕のキッチンをを紹介したいと思います。一口IHコンロとその真横にIHコンロとそう変わらない大きさのシンクが一つ。切るスペースはないので、シンクにまな板をかぶせるように置いて食材を切っています。
僕は向こう見ずに作り始めたので、まぶすための塩と砂糖を用意していませんでした。
用意しなくてはなりません。しかし手には生肉の脂やら汁やらがついています。さすがにその手であたりを触りたくない。シンクにはまな板がかぶさっていて水を流せない。
両手を手術室に入る前の外科医みたいにしながら悩むこと数分。ここ最近で一番間抜けな姿だったと思います。
結局手首や手の甲をを使ってうまいことまな板をずらし、事なきを得ました。
塩と砂糖をまぶした後、ラップで包む工程で全く同じことをしでかしました。
肉の下にラップを敷いて、肉を巻きます。でも肉の脂でラップが滑ってうまくまけないんですよね。強く巻こうとするとラップが破けます。
その時に作った鶏ハムは、巻きが緩かったのかゆでている最中ラップがほどけてしまい、ただのゆで鶏になりました。
「滑らず」「強く」「均等に」力を入れて肉を巻きたい――
ここで巻き簀です。これだから巻き簀が欲しいのです。読み方は「まきす」。巻きずしを作るときに使うあれです。
もともと欲しかったは欲しかったんですけどね、巻き簀。
だし巻き卵をよく作るのですが、巻き簀を使うのと使わないのでは形の完成度が違います。
それに竹でできた巻物ってなんだかかっこよくないですか。
RPGで中盤くらいに出てくる日本の老人風のボスキャラが秘術使うときに持ってそうなビジュアルしてません?
こう、開くと竹の一本一本にお経みたいの書いてあるんですよ。梵語で。
流石にブラインドに見立てて西部警察の石原裕次郎ごっこするのは無理があるけど、簾に見立てて垣間見ごっこくらいはできそうですし。
案外そこから始まる恋もあるかもしれませんよ。巻き簀の垣間見ごっこから始まる恋。多分巻き簀の垣間見ごっこをノリノリでやっちゃうような二人ならもとから趣味は合うんでしょう。
どうですか、鶏ハムを作る、だし巻き卵を作る、秘術を使う、恋を始める。様々なシーンで使える巻き簀が、欲しくなってきてはいませんか?もう欲しくて欲しくてたまらなくて、頭から巻き簀が離れなくなってきていませんか?
もう迷うことなんて何もないのです。
ただただ本能に身を任せるのです!
さぁ、ともに走り出しましょう!!
夜明けのかっぱ橋に向かって!!!
冗談が過ぎました。
でもあの類の調理器具って1,2回使って後使わなくなっちゃうんですよね。キッチン棚の肥やしというか。
わざわざ自分で買うまでのものかと言われると…………ねぇ?
あ、でもくれるならもらいます。
疲れた身体に助六寿司
午後11時、お腹が空いて近所のスーパーに行きました。
閉店が近くなったスーパーっていいですよね。値引きされた総菜とか弁当とかあって。
ただ流石に閉店ぎりぎり過ぎたのか、今日はあまり残ってなくて、寿司コーナーなんか4割引きになった助六寿司が3,4パック残っているだけでした。
美味しいですよね、助六寿司。
お稲荷さんと巻き寿司が入っていれば一応何でも助六寿司を名乗れるそうですが、僕は断然お稲荷さんとかんぴょう巻きだけの助六寿司が好きです。
スーパーに寿司は数あれど、あれだけ仕切りのバランが輝ける場所は、お稲荷さんとかんぴょう巻きの助六寿司だけじゃないでしょうか。
食材だけだと白、黒、茶色とえらく地味な組み合わせですから。
でもそんな、寿司自体には華なんかなくとも、味で勝負だてやんでぃという江戸っ子風情を感じるお稲荷さんとかんぴょう巻きの助六寿司が僕は大好きです。
ただ、それでもやっぱり人気者はちらし寿司とか握り寿司の盛り合わせなわけで。
僕が一番助六寿司を意識して食べていた時期も、その出会いはやっぱり売れ残った助六寿司だったと思います。
中学時代、僕はバレー部に所属していました。結局たいして上達できなかったけれど、そのころは真剣で、部活以外にも学外のバレークラブに所属していました。
放課後部活で練習して、家に帰って着替えたらまたクラブで練習して。部活とクラブの間で軽く何か食べるにしても、クラブの練習から帰る頃にはいつもへとへとだったし、いつもお腹が空いていました。
その日はたまたま家に帰っても家に何もないということで、スーパーで何か買って帰ることになりました。
その時は、本当はかつ丼!とか鉄火丼!とかを食べたかったんですが、案の定そんな人気者とうに売り切れていて、残っていたのは助六寿司だけでした。
そんなはじめは仕方なくで出会った助六寿司だけれど、食べてみると意外と美味しい。
それどころか、疲れた身体には丼ものなどの重いものより、程よい量で優しい甘さの助六寿司のほうがよっぽど適当であるような気さえしました。
いいじゃないか、助六寿司。江戸っ子風情があって優しいなんて、助六の名に恥じない立派なものじゃないか、と。
そんなことを、今日僕はスーパーの寿司コーナーで思い出したのです。
そして僕はそのお稲荷さんとかんぴょう巻きの助六寿司を、夜食用と明日の朝食用、迷わず2パック買いました。
そうすれば、また明日も頑張れる気がして。
そして今、その助六寿司をつまみながらこの記事を書き、あることを思い出しました。
「中学の時食ってた助六寿司って卵焼き入ってたわ」
いやぁ、思い出って美化されるものですね。
卵焼きのおかげで彩もあったし、優しい甘さだって卵焼きに由来するものだった気がしてきた。
なぁにが味で勝負だてやんでぃじゃ、助六って傾奇者だったはずだろバカヤロウコノヤロウ。
思い出とは違う助六寿司を冷蔵庫に眠らせ、明日また頑張れるのかを憂う月曜の深夜。
乱筆乱文とはまさにこのことである。